高槻市観光協会(たかつきマルマルナビ)では、これまで里山の景色が楽しめる原コースや樫田コース、平安時代の史跡をめぐる古曽部コースなど、市内各地域の散策コースをご案内してきましたが、今月ご紹介するのは、西国街道エリアから淀川に向けてのんびりと散策する梶原(かじわら)・上牧(かんまき)コースです。
高槻には、かつて都のあった京と西国を結ぶ道が通っていることから、古くは宿場町としても栄えた歴史があり(芥川エリアにはその名残があります)、古い史跡も数多く残っています。現在、梶原エリアの西国街道は人通りが少なく、風の音が感じられるほどの静けさがあります。そのため、昔の佇まいが好きな方、かつて旅した人々に思いを馳せることが好きな方にはぜひオススメしたいスポットです。(交通量は少ないですが、道がやや狭いため歩行時はご注意ください。)
では、早速、梶原・上牧コースの全貌をご紹介していきましょう。
※高槻には地元をこよなく愛する人々が運営する「高槻ボランティアガイド」という組織があり、ガイドの話を聞きながら散策することもできます。歴史小話を聞きながらの散策は、またひと味違ったものになりますので、ご興味のある方は高槻市観光協会までお問い合わせください。
梶原・上牧コース (モデルコース)
所要時間:(市営バス利用の場合)約2時間40分
※高槻市営バスを利用する場合は、JR高槻駅南または阪急高槻市駅 6番のりば 「12 道鵜町」または「7 上牧 / 7A 上牧(道鵜町経由)」行き(乗車時間:約20分)「国道梶原」または「梶原南」下車、畑山神社まで徒歩約10分 / JR高槻駅南発 [時刻表] 阪急高槻市駅発 [時刻表]
歩行距離:約10km
Web:https://www.takatsuki-kankou.org/model-course/kajiwara-kanmaki.html
畑山神社(梶原神社跡)(はたやまじんじゃ(かじわらじんじゃあと))
かつては「永福寺」と称されましたが、明治元年の神仏分離令を受けて明治5年(1872年)に「畑山神社」に改められました。神社でありながら山門をもつのはその名残です。また、市内最古の寺院のひとつとされる「梶原寺」があったとみられており、当時の建物跡や瓦などが出土しています。(梶原寺の御堂は元中4年(1387年)に奈良・栄山寺の薬師堂として移設されたいわれています。)
梶原瓦窯跡(かじわらかわらがまあと)
天平勝宝8年(756年)の「正倉院文書(しょうそういんぶんしょ)」には、東大寺から梶原寺へ6000枚の瓦を発注した記録が残っており、その史実を裏付ける窯5基と工房などが出土されました。梶原寺の造営や経営が大和の大寺院とつながっていたことを伺わせる貴重な史跡とされています。
一乗寺 (いちじょうじ)
創建は不明ですが、応永34年(1427年)に日親上人(にっしんしょうにん)が地元住民に請われ建立した日蓮宗派寺院です。法華経布教のため「立正治国論(りっしょうちこくろん)」を著した日親上人は幕府に捕らえられ拷問を受けました。その法難を描いた狩野探幽(かのうたんゆう)筆といわれる「日親上人法難絵図」、日蓮聖人直筆の「消息断片二幅」が宝寺として残っています。
梶原一里塚跡(かじわらいちりづかあと)
街道の一里毎に榎(エノキ)を植えて路程の目印とした一里塚があった場所です。江戸時代の街道会図には塚前に茶店があったことなど当時の様子が描かれています。現在は、淀川沿いから水害を逃れてここに移されたという「水あがりの地蔵さん」を祀るお堂が建っています。
神南備の森跡(かんなびのもりあと)
「かんなび」とは「神の宿る森」という意味で、このあたりには和銅3年(711年)に設置された山陽道の官駅があったと推定され、平安時代には京から西国に下る都人との別れを惜しんだ離別の地だったといわれています。
本澄寺(三好達治記念館)(ほんちょうじ(みよしたつじきねんかん))
文明3年(1471年)創建で足利将軍や京都の烏丸(からすま)家が崇敬したといわれています。烏丸家は、15世紀以来、上牧(かんまき)・鵜殿(うどの)一帯の荘園領主で、境内には今もなお、「烏丸殿領鵜殿神殿」と刻まれた領界石があり、当時の名残りをとどめています。本澄寺では日蓮聖人顕示の大曼陀羅(だいまんだら)を本尊として祀っています。境内には昭和の詩人・三好達治の記念館があり、直筆の原稿や書簡などが保管・展示されています。
鵜殿のヨシ原(うどののよしはら)
淀川河川敷(鵜殿から上牧)に広がるヨシ原(ヨシの群生地)を鵜殿のヨシ原といいます。大阪みどりの百選、関西自然に親しむ風景100選にも選ばれるこの地では、初春にヨシ原の保全と害草・害虫の駆除などを目的に、野焼き「ヨシ原焼き」が開催されます。高槻を代表する冬の風物詩です。