大名の地位を捨ててまでも、キリスト教の信仰を貫いたことで知られる高山右近。彼の生涯と高槻に点在する関連スポットをご紹介します。
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「太平記英勇傳 高山右近」しろあと歴史館 蔵
右近がキリスト教と出会ったのは永禄7年(1564年)、12歳の時。父の勧めで奈良県の沢城で受洗し、「ジュスト」という洗礼名を受けます。天正元年(1573年)の21歳の頃に高槻城主となり、城下町を整備する一方、20を超える教会を建設。当時人口2万5千人のうち、7割強がキリスト教信者であったともいわれています。
さらに織田信長や豊臣秀吉といった天下人にも仕え、黒田官兵衛や蒲生氏郷といった有名な武将なども入信に導きました。
右近は武人としての才にも長けており、天正10年(1582年)の明智光秀との山崎合戦では、秀吉方の先鋒として活躍。天正18年(1590年)の小田原北条氏攻めの際は、前田利家の下で働きました。
また、高岡城や金沢城の設計に関わった名築城家といわれるほか、文化人としての教養も高く、茶の世界では千利休の弟子、「利休七哲」の一人に数えられています。 -
「高山右近天主教会堂跡」の石碑と、付近のキリシタン墓地から出土した木製のロザリオ
天正15年(1587年)の秀吉によるバテレン追放令、慶長18年(1613年)の徳川幕府によるキリスト教の禁教令など、周囲からのキリスト教弾圧に右近が屈することはありませんでした。大名の地位を捨ててまで貫いた信仰は人々の胸を打ち、教皇シスト5世からは右近を称えた書簡も送られています。追放令後、右近は加賀の前田利家に迎えられ、金沢に屋敷を構えました。しかし、禁教令が発令されると、右近は国外追放となり、長崎からマニラ市へと旅立ちます。無事到着はしたものの、間もなく病によって最期を迎えました。慶長20年(1615年)のことでした。
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迫害を受けながらも生涯信仰を貫き通した右近。平成27年(2015年)に没後400年を迎え、平成29年(2017年)にローマ教皇庁から殉教者として列福されました。
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右近の縁で、高槻市とマニラ市は昭和54年(1979年)に姉妹都市として調印。市内のディラオ広場には右近像が建てられています。
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江戸時代の高槻城の表玄関であり、高槻城内(三の丸)への最も重要な出入口があった場所です。参勤交代など江戸や京都へ向かうときには、この門から西国街道へ進んだといわれています。
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右近の銅像が立つ、高槻城跡に作られた公園。城をイメージした園内の石垣と堀が城下町の風情を伝えています。
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高槻城三の丸跡の一画に建つ歴史館。江戸時代の高槻に関する資料や模型、ロザリオをはじめとした右近の関連資料などが展示されています。
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天正2年(1574年)、右近と父・飛騨守が建築した、天主教会堂や神学校が建てられていた場所。ここを拠点にキリスト教が広まったといわれ、キリシタン墓地も発見されています。
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カトリック高槻協会は、右近が生涯を終えた地、マニラ市郊外の聖母大聖堂をモデルにして昭和37年(1962年)に建てられました。前庭にはクラレチアン修道会の総長から贈呈された、イタリア産大理石の右近像があります。
高山右近は、戦国大名として、キリシタンとして、劇的な生涯を送ります。それだけに右近にゆかりのある場所は、高槻市のほかにも全国にたくさんあります。生誕地として知られる大阪府豊能町、キリシタンとして洗礼を受けた奈良県宇陀市、大名の地位を捨てた後に移り住んだ小豆島や金沢市、そして国外追放となり渡った先のフィリピン・マニラ市・・・。それぞれの足跡をたどり思いを馳せてみると、右近が歩んだ苦難の道が偲ばれます。
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① 大阪府豊能町
1552年、摂津の国高山(豊能町)で生まれる。
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② 奈良県宇陀市
1564年、12歳のとき、右近の父・飛騨守が居城する沢城にて洗礼を受ける。洗礼名はジュスト。
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③ 大阪府高槻市
1573年、和田惟長との抗争を経て、21歳で高槻城主に。以降12年間城主として活躍する。
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④ 兵庫県明石市
1585年、播磨明石へ領地替え。船上城に居城する。
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⑤ 香川県小豆島
1587年、秀吉のバテレン追放令によって、大名改易。小西行長により小豆島にかくまわれる。
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⑥ 石川県金沢市
1588年、前田利家の保護を受けて、加賀金沢へ移る。
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⑦ 富山県高岡市
1609年、前田利長が築いた高岡城は、右近が設計したといわれている。
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⑧ フィリピン・マニラ市
1613年、徳川幕府のキリシタン禁教令によって、右近一家は長崎からフィリピン・マニラへ出国。翌年、熱病にかかり右近死去。